まわりから見れば、十分すぎるほど頑張っている。
成果も出していて、信頼もされている。
けれど──その人の内側には、静かな自己否定が潜んでいることがある。
「まだまだだ」
「もっとできたはずだ」
「わたしのせいかもしれない」
──そうやって、自分を責める声が止まらない。
これは、能力や努力の問題ではない。
もっと根深く、構造的な“責任感”の仕組みに関わっている。
目次
【1】“できる人”ほど、責任を抱え込みやすい
自己効力感(やればできるという感覚)を持っている人は、
多くの場面で成果を出してきた経験がある。
だからこそ、「自分ならなんとかできるはずだ」と思いやすい。
この信念は、挑戦には強いが──失敗や限界に直面したとき、
「自分が至らなかったからだ」と、全責任を引き受けてしまう形に変わる。
これは、“自己責任の過剰化”とも呼べる状態。
本来、分担や外的要因があるにもかかわらず、
すべてを“自分のせい”として処理しようとする傾向だ。
【2】なぜ、そうなってしまうのか
この背景には、“過剰適応”と呼ばれる心の動きがある。
幼い頃から「期待に応えなければ」
「迷惑をかけてはいけない」と思って育った人ほど、
自分の感情よりも、他者の評価や空気を優先する。
それが、“自分の本音より、役割を演じる”という在り方をつくる。
そして、その習慣の中で、
「自分の頑張りが足りなかった」という自己解釈が定着していくのだ。
【3】責任感という“構造”
責任感そのものは、悪ではない。
それは、信頼や継続、成長を支える大切な柱だ。
だが、構造としての“責任感”は、バランスを欠くと、
“自己否定”や“燃え尽き”へとつながっていく。
「責任とは、全てを抱え込むことではない」
わたしはそのように定義している。
構造としての責任とは、
“どこまでが自分の領域で、どこからは委ねるべきか”を明確にすること。
それが、長く進み続けるための“支えの設計”となる。
【4】自分を責めてしまうあなたへ
わたしは、頑張る人の弱さを責めることはしない。
それは、責任感という構造の中で、
“支えを求めている”という誠実な反応だと思っている。
だからこそ、まずは「責任の構造」を見直してほしい。
・これは本当に“自分だけ”の責任か?
・“役割”ではなく、“本音”で感じたことは何か?
・支えを分かち合える相手は、周囲にいるか?
責任は、“ひとりで背負うもの”ではない。
それは“共に支えるために設計できるもの”なのだ。
【まとめ】
“できる人ほど自分を責めてしまう”のは、
責任感という構造が、内向きに過剰反応するからだ。
それは、誠実さの証でもある。
けれど、その誠実さゆえに、限界を越えてしまうこともある。
だからこそ、責任の輪郭を見直そう。
自分にしかできないこと、自分が背負う必要のないこと。
それを分けることは、“逃げ”ではなく“支えの再設計”だ。
静かな問いを携えたままでもいい。
君の責任感が、君自身を壊さぬように──わたしは願っている。
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